宮﨑イン圃の墨竹画です。
享保2年(1717年)、尾張国海西郡鳥池村にて宮崎古厓の長男として生まれる[1][2][3]。18歳の時、両親と京に移り、伊藤東涯に師事して学ぶ。東涯没後は、東涯の弟・伊藤蘭嵎に師事した[1][4][5]。

詩画に優れ、特に墨竹画については、山科李蹊、御園中渠、浅井図南とともに「平安の四竹」と称された[1][5][6]。しかし、画名が高まった結果、人から儒者ではなく画工と見られていると母に諌められて筆を折り、その後、終生画筆をとることがなかったという[6][7]。

また、俗習に染まらず、世情に疎い人物であったとされる[8]。ある日、雨に降られた筠圃が、慌てて駆け込んだ軒下が娼家であった。娼家の妓たちは、しきりに「お入り、お入り」と筠圃を招いた。筠圃は客引きされたと分からず、帰宅してから弟子たちに「傘を貸そうとしたのだろう。仁というものは実に人の固有である。」などと語ったことから、以来、弟子は筠圃を「仁先生」とあだ名したという逸話が残されている[8][9]。

安永3年(1774年)、享年58にて没し、東山の永観堂に葬られた[1][10]。

備考録、経説、詩文集数巻を著したが、いずれも成稿に至らず終わった。墨竹画です。

西寿寺物語

西寿寺は泉谷山という山号をもつ浄土律・捨世派のお寺です。
江戸時代初期、寛永4年(1628年)、浄土宗の高僧・岱中良定上人を開山として、
念仏三昧道場として霊地・泉谷に開かれました。

西寿寺の本堂を建立するときに、この地を造成したところ、
太陽と星と月が彫られた三光石が現れました。

そして、その下から泉が湧き出したことからお寺の山号を泉谷山となずけられました。

この泉はいかなる旱魃にも枯れることなく、現在も清らかな清水を湧き出しています。

出現した三光石は、現在鎮守社・三光石神社のご神体として大切にお守りしております。

捨世派というのは、世俗を離れて戒律を守り静かにお念仏をする僧侶集団のこと、
西寿寺は開山以来、念仏三昧道場として多くの人々のお念仏修行の場でした。

ご本尊の阿弥陀如来さまは、万治元年、約352年前に現在の滋賀県甲賀郡甲南町の
新宮大明神の本地仏を御遷座されたもので、平安末期の阿弥陀さまです。

円派の仏師の手によるもので、その様式は、藤原仏の特徴を良く現した仏さまです。
その穏やかなお顔を拝顔すると、心が穏やかになれます。
元々は、天台の阿弥陀さまなので座禅をされ、最高の悟りの世界に入られたお姿で、
上品上生の印を結んでおられます。

身の丈は約3mもあることから、昔から「丈六の弥陀」と呼ばれております。
西寿寺の水琴窟の一つは、阿弥陀さまが「丈六の弥陀」と呼ばれていることから、命名されました。

昔から、厄除けの阿弥陀さまとして近隣の人々の信仰を集めておりました。

~水琴窟が囁く癒しのお寺~ いずみ谷 西寿寺
〒616-8253 京都市右京区鳴滝泉谷町16
TEL/FAX:075-462-4851(代表)